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甲本ヒロトの若い頃に迫る!音楽と青春の軌跡

M-TOWN

甲本ヒロトの若い頃に何があったのか、気になっているならその疑問はとても自然なものです。今もなお第一線で活躍する甲本ヒロトが、どんな環境で育ち、どんな出会いを経て音楽の道を選んだのか。

その若い頃の情熱や葛藤、そして変わらないロック魂に触れることで、彼の音楽がなぜ多くの人の心を打つのかが見えてきます。甲本ヒロトの若い頃をたどることで、彼の人間性や音楽への向き合い方がより深く理解できるはずです。

飾らない言葉とまっすぐな姿勢に、きっと共感できる瞬間が見つかります。

【この記事のポイント】

  • 甲本ヒロトの若い頃の音楽との出会い
  • バンド活動の始まりと成長の過程
  • 現在まで続く演奏スタイルとこだわり
  • 人柄や趣味から見える素顔と魅力



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甲本ヒロトの若い頃と音楽との衝撃的な出会い

岡山で育った少年時代のヒロト

甲本ヒロトは1963年、岡山県岡山市で誕生しました。実家は市内で「ドライ甲本」というクリーニング店を営んでおり、店舗兼住居の環境で育ちました。居間と仕事場が戸一枚で隔てられていたため、父親がアイロンをかける姿を日常的に目にしていたそうです。家庭の中には、仕事と生活が自然に混ざり合う空気が流れていました。

小学校時代は、岡山大学教育学部附属小学校に通っており、地元でも優秀な児童が集まることで知られる学校です。中学も同附属中学校へ進学し、のちに岡山操山高校へと進みました。いずれも進学校として知られており、両親が教育に熱心だったことがうかがえます。

幼少期のヒロトは、静かでぼんやりした印象の子どもだったとされています。担任の先生からは「ボケ作」というあだ名をつけられ、存在感が薄い少年だったようです。夏休みの宿題をサボるのが恒例で、爪楊枝を折っただけの「歯の裏をほじれる爪楊枝」を提出したこともありました。夢は「働かずに親に養ってもらいながらテレビを見てお菓子を食べること」だったと語られており、のんびりとした性格が垣間見えます。

音楽との出会いは12歳の春休み、ラジオから流れてきたロックンロールに衝撃を受けたことがきっかけでした。この体験が彼の音楽人生の原点となり、もし出会っていなければ家業を継いでいた可能性もあったと考えられています。初めて買ったレコードは西城秀樹の『薔薇の鎖』で、実は『激しい恋』を買うつもりだったのに間違えてしまったというエピソードも残っています。

父親は厳しくも温かい人物で、家出少年を保護する活動をしていたこともあり、見知らぬ子どもが居間で食事をしていることもあったそうです。ロックのライブに行きたいと願ったヒロトに「不良が多いからだめ」と言いながらも、ラジオ局の裏口で待つ息子に付き添ってくれるような優しさも持ち合わせていました。母親は現在も健在で、金髪ベリーショートの姿が話題になるほど、個性的で元気な様子が伝えられています。

少年時代の甲本ヒロトは、静かな性格ながらも豊かな感性を持ち、家庭環境や両親の影響を受けながら、音楽への情熱を育んでいったことがわかります。

初めて聴いたロックで涙した瞬間

甲本ヒロトがロックと出会ったのは、12歳の春休みのことです。小学校から中学校へ進学する直前、ラジオから偶然流れてきたロックンロールの音に、彼は突然心を揺さぶられました。それまで音楽は身近にあっても、ただの背景のような存在でしたが、その瞬間だけは違っていました。まるで焦点が合ったかのように、音が鮮明に胸に飛び込んできたのです。

その衝撃は、単なる感動を超えていました。涙が止まらず、嗚咽を漏らしながら畳をかきむしるほどの反応だったと語られています。自分でも「気が狂ったのでは」と思うほどの体験で、言葉では説明できないほどの強烈な感情が押し寄せてきたのです。そのとき彼は、初めて「感動」というものを身体で理解したといえます。

この出来事がきっかけとなり、甲本ヒロトは「一生この音楽を聴き続けたい」と強く思うようになります。それまで夢や目標を持っていなかった彼にとって、ロックンロールは初めて心から欲したものだったのです。どうすればずっと聴いていられるかを考え、レコード屋で働けば毎日音楽に触れられるのではないかと想像したこともありました。

当時はまだ自分で演奏するという発想には至っておらず、ただ聴くことに専念していました。その後、1977年にパンクロックが登場すると、彼はそれを「新しい音楽」とは感じず、むしろ「自分が好きだった古い音楽の延長線上」にあると受け止めました。ブルースやソウル、60年代のビートグループに通じるものを感じたことで、パンクロックは彼にとって「これなら自分にもできる」と思わせる存在になったのです。

このように、甲本ヒロトの音楽人生は、偶然耳にしたロックンロールによって始まりました。涙があふれるほどの衝撃と、心を突き動かす音楽との出会いが、彼の原点となり、後のバンド活動へとつながっていったのです。

シーナ&ザ・ロケッツとの運命的な接点

甲本ヒロトがシーナ&ザ・ロケッツと出会ったのは、高校時代の岡山でのことです。彼らがツアーで地元に訪れた際、ライブに行きたいと願ったヒロトは、両親から「不良が多いからだめ」と反対されてしまいます。それでも諦めきれず、ラジオ番組に出演するという情報を聞きつけ、父親と一緒に放送局の裏口で待ち伏せするという行動に出ました。

その場で、ヒロトはシーナと鮎川誠に直接声をかけ、「サインをください」と駆け寄ります。驚いた二人は、彼をラジオ局の中へ招き入れ、放送の様子を見学させてくれました。初めて間近で見るロックミュージシャンの姿に、ヒロトは胸を高鳴らせながら、「僕、まだロック未体験ですけど、僕にもロックンロールができるような気がするんです」と素直な気持ちを伝えます。

その言葉に対して、鮎川誠は「大丈夫。きっとできるよ!」と力強く返しました。この一言が、ヒロトの心に深く刻まれ、音楽の道を本気で志すきっかけとなります。ライブを観ることは叶いませんでしたが、本人に直接会い、言葉を交わした体験は、何よりも強いインパクトを与えました。

その後、ヒロトはシーナ&ザ・ロケッツを「憧れの存在」として語り続け、彼らの音楽や姿勢に強く影響を受けながら、自身の音楽活動を展開していきます。THE BLUE HEARTSの初期アルバムには、シーナ&ザ・ロケッツのメンバーがプロデュースに関わっており、音楽的なつながりも深まっていきました。

高校時代のこの出会いは、単なるファンとしての体験ではなく、甲本ヒロトの人生を動かす大きな転機となりました。ロックの自由さと人とのつながりの力を、彼はこの瞬間に体感したのです。

▶▶ シーナ&ザ・ロケッツについて詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ


高校時代に初めて組んだバンド「ラウンド・アバウト」

甲本ヒロトが高校3年生の頃、卒業間際に加入したのが「ラウンド・アバウト」というバンドです。もともと友人たちが組んでいたバンドで、ボーカルが受験勉強のために抜けたタイミングで、剣道の授業中に誘われたことがきっかけでした。甲本ヒロトにとっては、これが初めてのバンド活動であり、音楽の世界に足を踏み入れる重要な一歩となりました。

バンド名は、ディープ・パープルの前身バンドに由来しており、洋楽への憧れが込められています。活動拠点は岡山で、地元のラジオ番組に出演したり、長谷川楽器でデモ音源を録音したりと、精力的に活動していました。1980年11月に岡山で、1981年8月には東京でも録音を行っており、地元だけでなく首都圏への進出も視野に入れていたことがうかがえます。

ライブは1981年3月と8月の2回のみでしたが、山陽放送主催のコンテストに出場し、審査員特別賞を受賞するなど、一定の評価を得ていました。また、テレビ番組「スター誕生!」のオープニングアクトとして出演し、「Jump’inJap 3-3-7」を演奏した映像が全国放送されたこともありました。この経験は、甲本ヒロトにとって大きな自信となり、音楽活動への意欲をさらに高めるきっかけとなります。

バンドのメンバーは、甲本ヒロト(ボーカル)、有冨政司(ギター)、亀山哲彦(ベース)、田中秀明(ドラム)で構成されていました。演奏スタイルは、オリジナル曲に加えて、キンクスやローリング・ストーンズ、セックス・ピストルズなどのカバーも取り入れており、当時のロックシーンへの強い憧れが感じられます。

短命ながらも、ラウンド・アバウトでの活動は甲本ヒロトにとってかけがえのない経験でした。ステージに立ち、音楽を通じて観客とつながる喜びを知ったことで、彼のロックへの情熱はさらに深まり、後のバンド活動へとつながっていきます。

上京と法政大学中退の背景

甲本ヒロトは高校卒業後、大学進学を条件に両親の許しを得て上京しました。進学先は法政大学経済学部で、当時は奨学金を得ながら、東京・幡ヶ谷の四畳半のアパートで一人暮らしを始めています。家賃は月14,000円ほどで、決して裕福な生活ではありませんでしたが、音楽に囲まれた日々は彼にとって刺激的で、自由な空気に満ちていました。

大学生活は、学問よりも音楽活動に重きを置くようになり、次第に授業からも足が遠のいていきます。バンド活動に夢中になるあまり、学費の支払いも滞るようになり、結果的に2年で中退することになります。中退を決意した日、甲本ヒロトは岡山の実家に突然帰省し、「今日から歌手になる」と両親に宣言しました。父親が「大学は出た方がいい」と諭しても、「今日やめないとダメだ」と言い張ったとされています。

この頃、プロのミュージシャンになる確かな見通しはまだ立っていませんでしたが、彼の中には「なんとかなる」という前向きな気持ちがありました。大学在学中にはすでに「人にやさしく」などの楽曲を作っており、音楽への情熱は日々高まっていたのです。

東京での生活は、甲本ヒロトにとって音楽仲間との出会いの場でもありました。ライブハウスや路上でのセッションを通じて、同じ志を持つ仲間とつながり、音楽の可能性を広げていきます。この時期の経験が、後にTHE BLUE HEARTSを結成する土台となり、彼の音楽人生を大きく動かす原動力となりました。

モッズシーンでの活動と「THE COATS」

甲本ヒロトが東京で音楽活動を本格化させたのは、モッズカルチャーが盛り上がりを見せていた1980年代初頭のことです。彼はこのムーブメントに強く惹かれ、モッズファッションやビートバンドのサウンドに影響を受けながら、自身の音楽スタイルを築いていきました。そんな中で結成されたのが「THE COATS」というバンドです。

THE COATSは、甲本ヒロトがボーカルを務めたモッズ系ロックバンドで、前身は高校時代のバンド「ラウンド・アバウト」でした。バンド名は「ザ・タイツ」と「ザ・コーツ」の候補から、メンバーの一言で「タイツは嫌だから」という理由で「ザ・コーツ」に決定されました。ライブでは「立ってみても座ってみても面白いコーツです」というMCが定番だったようです。

このバンドでは、甲本ヒロトが後にTHE BLUE HEARTSで発表する「NO NO NO」「人にやさしく」「少年の詩」「ロマンチック」などの楽曲をすでに演奏しており、彼の作曲活動はこの時期から本格化していました。ライブではオリジナル曲に加え、ビートルズ、ザ・フー、ローリング・ストーンズ、キンクス、セックス・ピストルズなどのカバーも披露し、幅広い音楽性を持っていたことがうかがえます。

THE COATSの活動は1984年まで続き、ライブハウス新宿JAMや目黒鹿鳴館などで精力的にライブを行っていました。その中で、真島昌利との出会いが生まれます。彼は当時「THE BREAKERS」というバンドで活動しており、同じライブハウスに出演していたことで交流が始まりました。音楽的な共鳴と人間的な信頼が深まり、やがてTHE BLUE HEARTS結成へとつながっていきます。

THE COATSは短命なバンドではありましたが、甲本ヒロトにとっては音楽的な土台を築いた重要な時期でした。モッズカルチャーの中で培ったセンスと、真島昌利との運命的な出会いが、彼の音楽人生を大きく動かす転機となったのです。

ブルーハーツ結成前夜のエピソード

1984年に「THE COATS」が解散した後、甲本ヒロトは新たな音楽の可能性を模索していました。その頃、ライブハウスで頻繁に顔を合わせていたのが、同じくバンド活動をしていた真島昌利です。彼は「THE BREAKERS」というバンドでギターとボーカルを担当しており、音楽に対する姿勢や価値観がヒロトとよく似ていました。

二人はライブの合間に音楽談義を重ね、互いの楽曲を聴き合いながら、自然と信頼関係を築いていきます。甲本ヒロトが「人にやさしく」や「NO NO NO」などの楽曲を披露すると、真島昌利はそのメッセージ性やメロディに強く共鳴し、自身の楽曲との相性の良さを感じていました。こうした交流が、やがてバンド結成への流れを生み出します。

1985年、甲本ヒロトと真島昌利は「THE BLUE HEARTS」を結成します。バンド名は、誰にでも覚えやすく、音楽のジャンルを限定しないような響きを意識して選ばれました。結成当初は、望月正水(ベース)と英竜介(ドラム)を加えた4人編成で活動を開始し、新宿LOFTなどのライブハウスで演奏を重ねていきます。

同年12月24日には「世界一のクリスマス1985」と題した初のワンマンライブを開催し、来場者全員に自主制作のソノシート「1985」を配布しました。この曲は、甲本ヒロトがその年に作ったもので、「日本のロック元年」としての意気込みが込められています。ライブハウスという小さな空間であっても、自分たちが日本代表だという誇りを持って演奏していたことが伝わってきます。

このようにして始まったTHE BLUE HEARTSは、わずか数年で日本のロックシーンを席巻する存在へと成長していきます。結成前夜のエピソードには、偶然の出会いや音楽への純粋な情熱が詰まっており、後の伝説的な活動の原点となっています。


甲本ヒロトの若い頃から現在までの音楽遍歴

THE BLUE HEARTSでの爆発的人気

THE BLUE HEARTSは1985年に結成され、1987年に「リンダリンダ」でメジャーデビューを果たしました。この楽曲は、甲本ヒロトの激しいボーカルとシンプルながらも力強いメッセージが印象的で、瞬く間に若者たちの心をつかみました。歌詞に登場する「リンダ」という言葉には特定の意味がなく、自由な解釈を許すスタイルが、ロックの本質を体現していると受け止められました。

「リンダリンダ」は、テレビ番組やCM、映画などでも頻繁に使用され、THE BLUE HEARTSの代名詞とも言える存在になりました。その後も「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」「人にやさしく」など、数々のヒット曲を生み出し、ライブでは観客と一体となる熱狂的なパフォーマンスを展開しました。甲本ヒロトのステージ上での動きや叫びは、まさにロックの衝動そのもので、観る者に強烈な印象を残しました。

バンドの人気は日本国内にとどまらず、海外でもライブを行うなど、国境を越えて支持を集めました。その音楽は、ジャンルに縛られず、誰もが共感できる普遍的なテーマを扱っており、世代を超えて愛され続けています。特に「青空」や「1000のバイオリン」などの楽曲は、社会的なメッセージを含みながらも、聴く人の心に寄り添うような温かさを持っています。

THE BLUE HEARTSは1995年に解散しましたが、その後も楽曲はドラマや映画、CMなどで使用され続けており、今なお多くの人々の記憶に残る存在です。甲本ヒロトと真島昌利が生み出した音楽は、時代を超えて響き続け、ロックの可能性を広げたバンドとして語り継がれています。

THE HIGH-LOWSへの移行と新たな挑戦

THE BLUE HEARTSが1995年に解散した直後、甲本ヒロトと真島昌利は新たな音楽の可能性を求めてTHE HIGH-LOWSを結成しました。バンド名には、感情の起伏や音楽の幅広さを象徴する意味が込められており、彼らの新たな挑戦への意気込みが感じられます。

メンバーには、ブルーハーツ時代から親交のあった調先人(ベース)、大島賢治(ドラム)、白井幹夫(キーボード)を迎え、5人編成でスタートしました。甲本ヒロトは「暇そうにしていたから」という理由で誘われたと語られており、肩の力が抜けた自然体のスタートだったことがうかがえます。

デビューは1995年10月、シングル「ミサイルマン」とアルバム『THE HIGH-LOWS』の同時リリースでした。この作品では、ロックの原初的な衝動を大胆に取り入れつつ、ポップな要素やユーモアも交えた楽曲が並び、従来のファンだけでなく新たな層にも支持されるきっかけとなりました。

1996年には、日本武道館で行われたセックス・ピストルズの来日公演でオープニングアクトを務めるなど、活動は精力的に展開されました。その後も「胸がドキドキ」「青春」「十四才」など、独自の世界観を持つ楽曲を次々と発表し、ライブツアーも全国規模で行われました。

特に「青春」は、ドラマの主題歌として起用されたことで幅広い層に浸透し、THE HIGH-LOWSの代表曲のひとつとなりました。また、アルバム『バームクーヘン』ではエンジニアを入れず、メンバーだけでレコーディングを行うという挑戦も実施され、音楽へのこだわりと自由な創作姿勢が表れています。

2003年にはキーボードの白井幹夫が脱退し、以降は4人編成で活動を継続。2005年に活動休止を発表するまでの約10年間で、シングル26作品、オリジナルアルバム8作品をリリースし、独自のサウンドとメッセージ性で多くのファンを魅了しました。

THE HIGH-LOWSは、ブルーハーツの延長線上にありながらも、より自由で実験的な音楽表現を追求したバンドとして、甲本ヒロトの新たな挑戦を象徴する存在となりました。

ザ・クロマニヨンズでの現在の活動

2006年に結成されたザ・クロマニヨンズは、甲本ヒロトと真島昌利を中心とした4人編成のロックバンドです。THE BLUE HEARTSやTHE HIGH-LOWSで築いてきた音楽的な土台を受け継ぎながら、より原始的でストレートなロックンロールを追求するスタイルが特徴です。結成当初から「新しい音楽をやるつもりはない。ロックンロールをやりたいんだ」という姿勢を貫いており、現在もその信念は揺らいでいません。

2024年には、17枚目となるアルバム『HEY! WONDER』をリリースし、全国ツアーを展開しています。このアルバムでは、モノラル録音による爆裂ロックンロールが響き渡り、初期衝動をそのまま形にしたような楽曲が並んでいます。1曲目の「あいのロックンロール」は、クロマニヨンズ史上最速とも言えるビートで始まり、聴く者を一気に引き込む勢いがあります。歌詞には「愛なき世界 夢なき世界 それがどうした 俺はいらねえ」といった力強いメッセージが込められており、年齢を重ねてもなお変わらぬ反骨精神が感じられます。

ライブ活動も精力的に続けており、ライブハウスから大型フェスまで幅広く出演しています。特に「月へひととびツアー」では、久しぶりにライブハウスでの演奏を行い、観客との距離の近さや空間の熱量に改めて感動した様子が伝えられています。甲本ヒロトは「ライブはいつも最高なんだ」と語り、どんな会場でも変わらず全力で音楽を届ける姿勢を持ち続けています。

60代を迎えた現在でも、甲本ヒロトの歌声やステージパフォーマンスは衰えることなく、むしろ円熟味と勢いが共存する独自の魅力を放っています。ザ・クロマニヨンズの活動は、若い頃の情熱をそのままに、今の時代に響くロックを鳴らし続ける証となっています。

歌い方の変遷と表現スタイルの進化

甲本ヒロトの歌い方は、バンド活動の変遷とともに大きく変化してきました。THE BLUE HEARTS初期では、荒々しく叫ぶようなスタイルが印象的で、腹の底から絞り出すような低音のシャウトが特徴でした。この時期の歌唱は、パンクロックの衝動をそのまま体現するような勢いがあり、音程や発声の正確さよりも、感情の爆発を優先するスタイルでした。

しかし、バンド活動を重ねるにつれて、甲本ヒロトの歌い方には変化が見られるようになります。特にTHE BLUE HEARTSの5枚目のアルバム『HIGH KICKS』以降では、声のトーンが軽やかになり、跳ねるようなリズム感が加わりました。それまでの重厚なシャウトから、よりポップで親しみやすい歌唱へと移行し、聴き手に届く言葉の響きを重視するようになっていきます。

THE HIGH-LOWS時代には、さらに表現の幅が広がり、曲ごとに異なるテンションやノリを前面に押し出す歌い方が定着します。フレーズを早口で言い切ったり、逆に音を長く引き伸ばしたりと、意図的に崩した歌唱が多く見られました。この「崩し」は、技術的な装飾ではなく、感情や詞のニュアンスを強調するための手法として使われています。

現在のザ・クロマニヨンズでは、甲本ヒロトの歌唱はさらに研ぎ澄まされ、無駄を削ぎ落としたストレートなロックンロールに仕上がっています。ビブラートやフェードイン・アウトなどの装飾はほとんど使わず、仮声帯を閉じてノイズを加えることで「エモさ」を演出するスタイルが定着しています。語頭や語尾にノイズを乗せることで、感情の揺れや勢いを表現し、聴く者の心に強く残る歌声となっています。

甲本ヒロトは、自分の歌い方について「よくわからない」と語ることもありますが、長年のステージ経験によって、体が自然に理解しているような安定感があります。激しく動きながらも声がぶれないのは、実戦で培った技術と感覚の賜物です。その歌声は、どんなサウンドにも埋もれず、常に中心に存在し続ける力強さを持っています。

こうした変遷を経て、甲本ヒロトの歌い方は単なる技術ではなく、彼自身の生き方や思想を映し出す表現手段として進化してきました。時代が変わっても、彼の歌には常に「今を生きる」力が宿っています。

楽器へのこだわりと演奏スタイル

甲本ヒロトの演奏スタイルは、ロックンロールの原点を思わせるシンプルさと、独自のこだわりに満ちています。ライブではギターを持たず、マイクとハーモニカだけでステージに立つことが多く、身体全体を使って音楽を表現する姿が印象的です。ハンドマイクを握りしめ、ステージを縦横無尽に動きながら歌うスタイルは、彼の代名詞とも言えるものです。

ハーモニカは、彼の音楽に欠かせない存在です。使用しているのは主にHOHNER社製の「Special 20」や「ブルースハープ」「マリンバンド」などで、曲によってキーや種類を使い分けています。生音で吹く際には「マリンバンド」を好み、ライブでは「Special 20」を中心に使用しています。特定の曲では、なぜかEキーのハーモニカだけを使うなど、独特な選び方も見られます。

アンプにもこだわりがあり、ハーモニカ専用の真空管アンプ「GUYATONE HP-300A」を使用しています。このアンプは現在では製造されておらず、希少な機材として知られています。ライブでは、ヒロトの背後にこのアンプが置かれていることが多く、彼のサウンドを支える重要な役割を果たしています。

ハーモニカ用のマイクも専用のものを使用しており、「GUYATONE Harpist-15M」が代表的です。このマイクはハーモニカの音を的確に拾い、アンプとの相性も良いため、彼の演奏スタイルにぴったりと合っています。ケーブルにはオヤイデ電気の「QAC-200G」などを使用し、音質や耐久性にも配慮されています。

甲本ヒロトは、楽器を単なる道具としてではなく、自分の身体の延長として扱っています。ハーモニカを吹くときの表情や動きには、音楽への深い愛情とこだわりがにじみ出ており、観客に強い印象を与えます。ギターを持たないことで、より自由に動き回り、歌と演奏に集中できるスタイルを確立しているのです。

こうした楽器へのこだわりと演奏スタイルは、彼の音楽人生を通じて一貫しており、年齢を重ねてもなお、変わらぬ情熱と探究心を感じさせます。

音楽以外の趣味と人間性

甲本ヒロトは音楽活動の枠を超えて、さまざまな趣味を持つ人物です。その一つがバイクで、若い頃からモッズカルチャーに影響を受け、ベスパに乗っていたことがきっかけでバイクに親しむようになりました。現在では複数台のバイクを所有し、ライブ映像やPVにも登場するほど、生活の一部として根付いています。事故で骨折した経験があっても、バイクへの愛情は変わらず、歌詞にもたびたび登場しています。

また、アニメへの関心も深く、特に『タイムボカンシリーズ』を好んでいます。若い頃には、音楽を担当していた山本正之の収録現場に足を運び、サインを求めたエピソードも残っています。その後、山本との交流が続き、楽曲での共演も果たしています。アニメの世界観や音楽性に共鳴する姿勢は、彼の創作活動にも影響を与えています。

昆虫採集も甲本ヒロトの趣味のひとつです。特にムシクソハムシなど、一般にはあまり知られていない昆虫に興味を持ち、ラジオ番組などでその魅力を語ることもあります。寄生虫館に足を運ぶなど、好奇心旺盛な一面が垣間見えます。昆虫に関する楽曲もいくつか存在し、自然へのまなざしが音楽に反映されています。

スポーツ観戦も好きで、プロレスやバスケットボールを好んでいます。プロレスに関しては専門誌でのインタビューも多く、技や選手の個性に対する鋭い視点を持っています。相撲にも関心があり、力士の体型や所作に美しさを見出すコメントを残しており、国技への敬意が感じられます。

釣りも長年の趣味で、ブルーハーツ時代から釣りにまつわる楽曲を制作しています。「テトラポットの上」や「ユウマヅメ」など、釣りの情景を描いた曲は、彼の自然との関わりを象徴しています。釣り場では帽子を深くかぶり、周囲に気づかれずに過ごすこともあるようです。

甲本ヒロトの人柄は、こうした趣味の中にも表れています。飾らず、気取らず、興味の赴くままに行動する姿勢は、ファンから「自然体でかっこいい」と支持されています。インタビューでは哲学的な言葉を交えながらも、ユーモアを忘れず、聞き手を和ませる語り口が印象的です。音楽だけでなく、生き方そのものが魅力となっている人物です。

若い頃から変わらないロック魂

甲本ヒロトは10代の頃から、ロックンロールに対して強い憧れと情熱を抱いてきました。初めてラジオから流れてきたロックに衝撃を受けた瞬間、彼は「一生この音楽を聴き続けたい」と心に決めたと語っています。その感動は、涙が止まらず嗚咽を漏らすほどで、まさに魂を揺さぶられる体験でした。

その後、彼は音楽を「理屈ではなく衝動である」と捉え、売れることや評価されることよりも、自分が信じる音を鳴らすことを最優先にしてきました。「売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ」という言葉には、商業主義への皮肉と、表現の本質を見極める姿勢が込められています。

THE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズとバンドが変わっても、甲本ヒロトのロック観は一貫しています。「新しい音楽をやるつもりはない。ロックンロールをやりたいんだ」という言葉の通り、流行や時代に左右されることなく、自分の中にある衝動をそのまま音にしてきました。

彼の歌には、完璧さよりも「気持ち」が込められています。「うまく歌いたいなんて、思ったことない」と語るように、技術よりも魂の叫びを重視する姿勢が、聴く人の心に深く響いています。ライブでは、毎回緊張しながらも全力でぶつかり、観客と真正面から向き合う姿勢を貫いています。

甲本ヒロトのロック魂は、若い頃の衝動をそのままに、今もなお燃え続けています。年齢を重ねても、彼の音楽には「自由であること」「自分のままでいること」というメッセージが込められており、世代を超えて多くの人々に勇気と希望を与えています。ロックとは何か――その答えを、彼は生き方そのもので示し続けています。

甲本ヒロトの若い頃から続く音楽と生き方の軌跡

  • 岡山で育ち家業と音楽が混ざる環境だった
  • 若い頃にロックと出会い涙するほど感動した
  • シーナ&ザ・ロケッツとの接点が音楽の道を開いた
  • 高校時代に初めてバンド活動を経験した
  • 上京後は法政大学に進学するも音楽に専念した
  • モッズシーンで活動し真島昌利と出会った
  • THE BLUE HEARTS結成前夜に音楽的な絆を深めた
  • メジャーデビュー後は爆発的な人気を獲得した
  • THE HIGH-LOWSでは自由な表現を追求した
  • ザ・クロマニヨンズで原点回帰のロックを貫いた
  • 歌い方は時代とともに進化し続けている
  • ハーモニカや機材に強いこだわりを持っている
  • 昆虫採集やアニメなど多彩な趣味を持っている
  • 飾らない人柄と哲学的な発言が魅力とされる
  • 若い頃から変わらぬロック魂を今も体現している

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